2022/4/26 AM8:06

曇った空の下満員電車にぎゅうぎゅう自分を押し込んでじっと目を閉じてニューオーダー聴いていたら臀部に硬く勃起したペニスが押し付けられた感覚があり、うわ勘弁して、と真っ先に思っていやでもこれがペニスだと決めつけるには早すぎないか?例えば何か別の、なんだろう、と考えを巡らすも、この柔らかい硬さは有機物の、生き物の固さだ。踵を少し後ろにずらして探りあてた足の甲を思い切り踏みつけると押し当てられる強さは弱まったが質量は変わらない。足をもう一度踏んでやりたいが遠のいた。ペニスの持ち主は何をどう思ってそれを勃起させて私の尻に押し付けているのか知る由もないが、私は今とんでもなく不快に思っていて、でも声を上げることはだるい、こんなにたくさんの人に囲まれた中で注目を浴びることの方が嫌だ。次の選択肢としてそのペニスを後ろ手で掴んで思い切り握りつぶすか、または振り返ってペニスの持ち主の顔を睨みつけて脳裏に焼き付けるか。どちらもしなかった。手で掴むということは私がそのものに触れるという行為を自ら選ぶことだし、見てしまえば見ることを選んだことになる。どちらも選択する自信がなかった。そして見ることは今知覚しているペニスという物質をその人自身の認識に変換させることだし、見ることは見られることで、私自身が認識されてしまうことだ。考えると恐ろしかった。
 
接触の暴力性について。選択によって負う責任について。認識による世界の変換について。
 
満員電車に乗る時は自動的に人を人と思わないようにしているのだと気づいた。パーソナルスペースに他人が入ってくることや身体中に他人の身体が接触するのは不快だ。だからいつも自分の身体も他人の身体も意思を持たない物体なのだと認識を切り替えている。その箱の中身には人それぞれの生活や意思や感情が入っているけれど、電車の中では、身体という箱と中身の感情は切り離されたものだ。だから腕や足が触れたところでなんてことはないけれど、勃起したペニスというものは身体と一体化した欲望が表出された器官だと感じる。そしてその欲望が無作為に予告なしに私の身体に押し当てられるのは暴力そのものだ。私の身体が感情の容れ物にすぎない時間であっても、私の身体は私のものだ。顔も知らない誰かは同じく私の顔も知らず、私を記号として認識して欲望の対象に選んだ。私の身体は私の意志と無関係に記号として扱われていい存在ではない。
 
欲望に基づいて個の侵害が行使されたならそれは暴力だ。
 
私が自分可愛さに声をあげなかったことと、この出来事を興味深く観察して解明したくて今書いていることと、自分が鬱屈する欲望の捌け口として性行為を行なっていたことと、暴力に基づく接触が許されないことは、すべて別の問題であり、すべて私が感じているのだからひとつひとつの繋がりが矛盾していてもしかたがない。それぞれが存在してしまっているのだから。暴力の行使は許されないけれど、被った私が何を思って何を考えてどう行動するかは私の自由だ。
 
暴力的な器官を持っている人、その暴力性を私に対して行使した人を、私は少し可哀想に思う。
 
私はファルスによる暴力性という透明な構造に嫌悪感を感じたけれど、男性器を持つ人間を全員憎んでいるというわけではない。ただこのような構造に自覚的ではない言動が垣間見えたり自分に及んでしまったと感じたならば、構造への嫌悪と個人への嫌悪が混ざり合ってしまうこともあり、それは自分では制御できない心の動きなのだ。そのような理屈ではどうしようもない心の動きも私が感じてしまえば抑圧することはできない。
 
矛盾した感情が自分の中にいくつも存在することはつらい。それらをひとつひとつ言語化することもつらい。でも、何を思っているのかわからないまま「細かいことは気にしないで」暮らしていくのは一番つらいし、そのような「前向きに生きるために取るべき行動」とも言うべきか、見えない考え方の規範のようなものが自分の中に根付いていることがとてもつらい。せめて書いておくことが自分のためだと思っている。こんなものを読んだ人は私のことを嫌いになるかもしれない。でも、知ったことか。