忘れるということは新しく物を覚えるということよ。酔うということは失った真面目さを取り戻すことよ。こういうことを若い人達は知らないことね
左胸の刺すような痛みは肋軟骨炎と診断が下った。かがんだりくしゃみをするとずきずきと痛むが、極めつけは泣いたときだった。声を出さずにいたつもりだったけれど、それでも肺が収縮するのが響くのだろう。身体の状態とは何ら関係のない感情の筈だったのに、呼応するように、文字どおりに悲しくて胸が痛かった。
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服を脱ぐと右肩に黒い線がまっすぐ入っていて、その線に沿ってまだ赤みが残っていた。針を刺すときは赤く血がにじむという。強くさわってみたかったけれど勇気が出なかった。傷が意味をもつ記号として身体に刻まれていくその過程をもし経験することがあったら、どのように変わってゆけるだろう。そのときは身体が自分だけのものになるだろうか、または世界のどこかに位置付けることで手放すことができるのだろうか。
実家を出る18歳の頃まで母親と一緒に風呂に入る機会があった。狭い浴槽で素肌のまま身を寄せる間、彼女と私は分離が許されなかった。私が彼女の胎内にいた事実に否が応でも回帰せざるを得なく、決定という手段がたちまちに遠のくのだった。思春期の只中で刻一刻と変わる感情と身体を見られるのが不快で、早く私の身体を私だけに所属させてほしかった。彼女は入浴時間の短縮を理由にしていたが、結局のところ何が本当の目的だったのかはわからない。
少しくらい痛かったりこちらの意思が関係なかったりしても平気でいられたのは、欲望されることで安心していたからだった。自分のものにならないなら身体なんて手放して構わないものだと思っていた。認められなくて自分や他人の意識から抜け落ちて透明なままより、即物的に必要としてくれる誰かに扱われるほうがよっぽど楽だった。
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もうすぐ引き払うという彼女の部屋を訪れるとフィルムカメラが置いてあった。撮ってもらったこともあったかもしれない。カメラが欲しいと色々な人に公言しているものの、私には写真を撮る勇気がないことに気がついてしまった。臆病すぎるから、現実を自分の手で切り取って他の人に差し出すことができないのだ。きっと恋人にも友人にもシャッターを向けられない。だからこうして書いているのだけど。私の中で起こったことは外部の現実ではないから、文字にして取り出してしんしんと眺めたい。でもそれだけではなくて、本当は世界のどこかに組み込まれたい。
世界のどこかに?行儀良く並んで水面の下で足を動かす水鳥のように、美しく細工が施されて箱に収まった小さなチョコレートのように、砂浜に散らばった薄紫色の貝殻のように、洒落た照明と音楽がかかるバーカウンターの一席のように、歩道の片隅に落ちた枯葉の葉脈のように、彼が脱がなかったTシャツのように、ブティックの棚に陳列する赤いエナメルのハンドバッグのように、郊外の観光スポットとされている花畑を構成する一輪の青い花のように? 一体どこにいけば?
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朝起きてもまだ酔いがまわっていて、昼日中に甘いワインを飲んで顔を赤くして、今はケーキを焼くために開けたラムをなめているけれど、今まで真面目さを失ったことなんてない。