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畑がやや異なるので、そんなことをも雑談のひとつに口にできるのであろうが、たっぷりとした閑があったら恋人についての明細を書いてみたいと言うのだった。なれそめと成り行きとか関係と及びそれに関連した感情は一切書きたくない。安定した、変化があるにしても無理のない穏やかなところでの変化を事細かに記録するに似ていながら、細目に自分の感情が絡み付いて離れないような事柄だけを、できることなら優美な言葉にして書き付けてみたい。書き付けることが必要であって、話すのではまるで意味がないそういうものが頭に浮かぶと言った。
中沢けい「東京」

 

 
都会に住んでしばらく経つが、休日の思いがけない人混みに出くわすと未だ不意打ちを食らった気分になる。冬に向かう気配を日差しがかき消す土曜の正午、駅前を行き交う人々はみな等しく熱と重量を持っていて、くっきりと生活の輪郭が立ち上がって見えた。しどけなくガードレールに寄りかかる自分に誰ひとり目を向けなくて嬉しかったけれど、でも見つけてもらえるとわかっていて、何倍も安心した。
 
書き付けておきたい、というのは突き詰めればどのような感情に端を発する欲望なのだろうか。忘れがたい瞬間を切り取るのなら写真という手段を使ってもいいのである。空間と時間の交差を切り取った画像にはしかし、その一瞬のわたしのまなざしをどこまで刻印できるか。こんな疑問は日常的に写真を撮ることのない人間の戯言に過ぎないのかもしれないが。
 
わたしは他者に反射して映る頼りない自我を、自由なままつかまえておきたい。レースのカーテン越しに透けて見える街灯と、熱いマグカップと、入れ替わったレコードと、ほつれそうな袖口。睫毛にふれたらひりひりするくらいだった。あのときにあんなにも確かに現存していたそれはもう掴めない。だから書き続けたいが、こんなものはそれを取り巻く空気をうすい紙袋に詰めるような行為でしかない。そうわかっている、わかっているけれど、うすくてみえない空気を吸って吐いてわたしが居るんでしょう。だからもう、観念して書くしかないのだ。
 
いつか西荻窪の喫茶店で、洋酒が入ったチョコレートパフェを食べさせてみたいと思う。