男娼の悲哀うつくし よるべなく道路は低き横浜の夜
終点の駅のトイレで吐いていた模造の麗人知らずにいた頃
死してなお生は完成しないのだとザジフィルムズのトリコロールは
しあわせな吹雪みたいに落ちていた海より青いキャメルの箱が
幼子の嬌声疎む人乗せて列車に刻めり1000
新潮のコロナ禍日記リレーの号が図書館のレンタル落ちになっていたからもらってきて紫色をしたお湯に浸かりながらぱらぱら読んで坂本慎太郎の夜型のお手本みたいな生活に感心していたけれどふと我に帰って、しっかりしなくちゃな、とひとりごちて、しっかり、一体何がどうなったらしっかりしてちゃんとした人間になれるんだろう。ちゃんとしなさいというのは死んだ祖母の口癖だった。祖母が死んで私はちゃんとしようとすることをやめてしまった、やめようとしている、やめたいと思いながら電車に揺られてる。朝に考えることと夜に考えることは全然違う。歩きながら考えることと家でじっとしながら考えることも違う。一人の人間のありようとして正しくないような気がずっとしていて統一された人間になりたいと思っていたけれどもう自分を決めるのはやめだ。夜は気持ちがばらばらになるのをそのまんま見てるだけ。いつかの明るい昼間、ガラス張りの綺麗な場所に座って向かい合った人から「昔ひどいことをしてしまった相手に謝りたいと思ってるの」と打ち明けられた。そのときの私には「謝りたい」が「許されたい」に聞こえてさっと心が粟立ち「時間が経った今その人が謝罪を求めているかなんてわからないでしょう」と返した。こうして思い返せば、その人が許されたいかどうかということと相手にすまないと思っていてその気持ちを伝えたいということは直結しないのであり、あんなに刺々しいことを言う前にその人の話をもっと聞くべきだったのだ、と思うけれどなんであのときあんなふうに言ったのかって私が謝るときっていつも許されたいからだった。ひどいことをして謝った相手なんて思い出せるのは彼女ひとりだけだ。記憶について考えることに飽き飽きしている。思い出すという行為は今起こっていることであり、回想の中で過去の事象は現在を創造するために使われて、それで終わり。思い出したところで過去に起こった事象はもう変わらない。どういうふうに思い出してみてもやり直せるわけじゃない。わかるでしょ。真夜中のスクリーンで見たアンナ・カリーナに憧れていたし口元を拭うジーン・セバーグになれたらどんなにいいだろうと思っていたけれど私は私以外の誰かになれない。私は過去を巻き戻してやり直すことができないし自己を誰かと交換することもできない。今を引き受けてやってかなくちゃならない。
仕事の夢と、猫の夢を見て起きた。ジェームス・ギャング聴きなが
いつかの夏の朝、市ヶ谷の住宅街をふらふら歩いていて、通りすが
夜の渋谷を抜けて、千駄ヶ谷まで行くと交差点の隣にある小学校に
不確定なことばかりの中を泳ぐように暮らしている。「気がする」
夢見が悪い朝は決まって貧血を起こして目の奥が真っ暗になりながらやっとの思いでベッドから起き出すのだけれどその日一日は咀嚼しても上がってくる繊維質のような夢の残骸がぐずぐずと胃の中に残って気持ちが悪い。夢の中でわたしは誰もいない教室の隅に立ち、窓から見える真っ青な空をぐんぐんと吸い込むように膨らむカーテンを眺めながらゆっくりと喉の奥に指を差し入れ、舌の奥のざらつきや収縮する喉奥を指の腹でなぞったのちに数回指を曲げて嘔吐を試みながら目の端から涙を流していた。
暗い浴室で赤く染まった盥を覗きこむ。服についた血は丹念に揉み洗いをしなければならなくて、真っ白い洗剤の泡と真っ赤な血が入り混じって透明な水に流されて消えてなくなっていくのを見ているとまるで儀式めいたような行為にも思えてくる。鼻孔の奥で洗剤の清潔な匂いとつんとつく鉄の匂いが混じり合いながらだんだんと意識の奥底に棲みついていくようだった。清らかさに怯えるように執拗に布をこすり続ければ手の皮膚が瞬く間にかさついていくのがわかる。喉の奥にはまだ圧迫感があった。口を開けば嗚咽が漏れそうだったから奥歯を強く噛みしめた。
その人が立ち上がり歩きだすまでうつむいていたら、鈍く光るまで丁寧に磨かれた靴の動きばかりが目についてまるで物珍しい生き物に見えた。その人がこちらに背を向けて歩き出せば靴底の背に桜の花びらが貼りついていた。満開の桜並木をちらりと見上げることもせず瞬時に朽ち始める花びらを踏みしめながら足早に通り過ぎて来たのだろうか。想像するとどうしようもなく寂しくて心臓が軋むようだった。せわしないその人の足音をやがて喧噪がかき消すまで下を向いていた。桜の花弁は瞼の裏側の色をしているとふと思った。
濱口竜介のPASSIONを観た。それはとんでもなく面白くて見たことのないことばかりが起こって2時間ずっと胸がどきどきしていた。人と人が関わる中で立ち現れる事象をひとつひとつ解明するように、今まで行ったことのない領域をめくるめく見せてくれるその過程はひたすらに言葉と言葉の応酬と視線のやりとり。意思と行動と感情は全部ばらばらに違うものでいながら一緒くたになって自分の身体の中に存在している。自分の中にあるばらばらのそれらが何らかの形で他人に対して発現されたならそれは他人にとっての受難。自分が被った受難は他人の意思や感情や欲望に基づく行為だった。私が行為してきたことはどのような形で誰かの受難になったのだろうか。そして私が受難した行為の裏にはどのようなその人のいきさつがあった? 知ろうとしていたようでわからないままにしていたのは自分を手放せなかったからだ。自分を受容することは、同時にしがみついていた自分を手放すことでもあり、そうしたら他人をちゃんと見られるようになるのかもしれない。あと少しでわかりそうなのにあと少しだけがわからなくて、だからずっとしがみついて捨てられないでいる、そういう自分を一度手放せば胸のつかえもなくなって目の前の人を見られるようになるだろうか。
(前に書いてたやつ)
突然サイレンがけたたましく鳴り響いてあなたのことを思い出したのです。あなたは最後にその綺麗な指でコーヒーに角砂糖を落としてスプーンでかきまぜてひと口啜ると淀みなく立ち上がりあたしに背を向けて、それきりでしたね。
あなたの首元には幾つかのほくろがあってあたしは正三角形に整列した3つのそれらを眺めながら世界の理について考えるのが好きでした。あの頃のあたしたちは錠剤とスコッチを毎日浴びるように飲み続けてまるで明日が来る方がおかしいんだと言わんばかりでした。あなたはいつもふざけた猫みたいな目をして硝子のようにひんやりとかがやく言葉をあたしに囁きましたね。あたしは何と応えたらいいのかわからなくて、あなたの視線が絡まるのが怖くって、だから窓の外を眺める癖がついてしまって、そうしたら途端に眠くなってベッドに倒れこむものだから、するとあなたは、—
クリスマスにあなたが買ってきてくれた薄桃色のスリップを覚えていますか。あたしはあんなに馬鹿げたレースがあしらわれたものはちっとも欲しくなかったから一晩中泣き喚いて、あたしが投げた赤ワインのボトルが粉々になって、誂えたばかりだったあなたの紺色のスーツとあたしのお気に入りだったクリーム色の置き時計がだめになってしまいましたね。壁に残ったワインの染みが月面の模様のようで素敵だったけれど朝になれば悪臭を放つものだからあたしたちはうんざりしつつも一生懸命ブラシをかけたのでした。あなたはその澄んだ瞳の下にあざやかな隈をつくってまるで老いぼれのかあいらしいむく犬のようで、あたしは可笑しくって大笑いして、そのあとにあなたの洋服を全部燃やしてしまいました。あなたはベランダで声を殺して泣いていてその涙はとても神聖なものに見えました。
あんなにも退屈で腐敗しきった日々がなぜだか恋しいのです。あたしがこんなことを考えていると知ったら今でもあなたはしずかに笑って煙草に火をつけるのでしょうか。左胸のポケットから薔薇色のガラムを取り出して、ひとさし指でそっと箱の底を叩いて一本取り出して、ていねいにマッチを擦って。
こんなふうに嘘を書くことがたまらなく甘美であると教えてくれたのはあなただけでした。
どうか元気で。